30代からの医学部学士編入合格への道

そうだ!医学部入ろうと思い立った経緯

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入試科目が少ない
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大学側が学士編入者に求める人物像について
何校でも併願可能
 学士編入試験合格作戦
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・学士編入試験の出願から受験・合格・入学まで
・学士編入試験出願チェックリスト
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・数学〜高校数学から大学教養課程まで
・物理〜高校物理を復習する
・化学〜高校化学を復習する
・生物・生命科学〜論述のための正確な知識を
・小論文〜医療のトピックス/志望動機
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医学部学士編入合格体験記:そうだ!医学部入ろうと思い立った経緯

「そうだ、京都行こう」ではなく「そうだ、医学部入ろう」です。
ここでは僕が医師を目指そうと思い立った経緯について述べたいと思います。

僕は元々医学には興味があったわけではなく、現役の受験生時代、医師になりたいと思ったことが一度もなかったことは、 他のページでも再三述べた通りです。高校での半強制的な自主学習のため抑うつ状態となったためか成績が急降下して東大理T現役合格ならず一浪となり、 その後は精神的に立ち直って東大理T合格を果たしました(現役合格できなかった言い訳をしていますが、要するに僕は天才型ではなく凡人で、 努力型の人間だということです)。 東大では一応真面目に勉強していたため成績は良く、理系で進学が最も困難と言われる理学部物理学科に進学しましたが、 これも努力した結果だと思っています。 本当は物理が好きだったのですが、物理の世界に閉じこもってしまうのが嫌になり、 大学院は工学部の物理工学に進学し、そこで2年間の修士課程を終えて、とある大手電機メーカーに就職しました。

その会社は東大閥として有名な会社ですが、入社直後は当然、同期とは横一線です。 その事業所で同期は10人ほどいましたが東大卒は僕1人でした。 僕は控えめで物静かな性格なため、同期からは好かれていましたし、ここで無難に働いていれば将来は安泰だと勘違いしていました。 その会社では入社2年目までは「研修員」と言って、仕事を覚えるための準備期間ということで、 他の事業所に赴任してそこで似たような部署に仮配属になるという制度が採られていました。 これが何を意味するのか、僕自身の考えを詳しく述べる機会があれば、他のページで述べたいと思います。

僕は自分から東大卒であることを主張することは絶対にしませんでしたが、周囲の社員は皆、僕が東大卒であることを知っているようでした。 他の誰からも「○○君は東大卒なんだよね」という言葉は一度として聞いたことがありませんでした。 たまに仕事で必要な物理や数学の問題を僕のところに持ってきて、教えを乞う人もいて、気前よく教えていましたが、 それは明らかに僕が東大卒でそのような問題を解く能力に秀でていることを見越してのことであることは明らかなのに、 少なくともそのことだけは頑として口にしないのです。 僕は職場の他の同僚たち、先輩たちの出身大学は聞かされていなかったのですが、うすうす入ってくる話を聞くと、 どうやら東大卒は僕以外にはいないようでした。

仕事は決して面白くありませんでしたし、上記のように人間関係は希薄で、僕が東大卒であることを誰も口にせず、 随分後になってから分かったのですが、僕にはそれと分からないようなやり方で、僕を飼殺してしまおうという魂胆のようでした。 決して思い込みや被害妄想で言っているのではなく、これに関しては僕にしか分からない証拠が断片的にいくつか見つかっています。 「研修員」時代の指導員は東工大出身でしたが、労いの言葉をかけられたことは一度もなく、 僕が書く書類に一々注文を付けてくるため、いっこうに仕上がらないといったことも度々でした。 それでも僕は口答えひとつせずに「はい、分かりました」と頭を下げて、言われたように修正するといった状況でした。 そして言われたことに忠実に従って修正して持っていくと、修正した内容を忘れてしまったのか、 彼が自ら修正したところに対して突っ込みが入ることもありました。 普通であれば、「○○さん、それは先程、貴方が修正したところですよ。僕は言われた通りに直しただけですから。」と 言うところだと思いますが、僕は彼との関係を壊したくなかったため、言われた通りに修正する、そんな状態でした。 もしかしたら彼はそれを知っていて僕が反論してくるかどうか、出方を試していたのだろう、と随分後になって考えましたが、 後の祭りです。人間というのは相手の出方を見てから自分の態度を決めるというところがある狡猾な生き物です。 もし僕がこの時、少しキレ気味に反論していれば、「ああ、この人はここまで言うと怒るんだな、それじゃ、次からはやめよう」 となったと思います。しかし実際には「ここまで言っても大丈夫だ、それなら次はもう少しエスカレートさせてやろう」 となってしまったのだと思います。 そして、このようにして彼と僕との関係はついに行きつくところまで行ってしまいました。 東工大卒の彼は、東大卒の僕が出世すること、彼が僕に追い越されて出世競争でリードされてしまうことを極度に恐れていて、 その出世の芽をこの場で摘み取ってしまおうという意図があったのだと思います。 後でこの話を色々な人にすると、一様にそのような反応をするので、僕自身の単なる思い込みや被害妄想ではなく、間違いのないところだと思います。 「男の嫉妬は怖い」と言いますが、最終学歴は僕の方が上であることは誰が見ても一目瞭然のはずなのに 「こいつには負けても仕方ないか」とは思えないところが、彼の人間の貧しさというか、人間性の限界を示していたように思います。

それに、仕事自体も決して面白くありませんでした。半導体記憶回路の設計・開発ははっきり言って単純作業です。 大学で学んだことが全く活かされない仕事ですし、残業だけが多く待遇も最悪で、人生の時間の浪費以外の何物でもないと僕自身は思っていました。 こんなことになると分かっていたら、学部時代、物理学科に残って好きな物理の研究の道に進んでいれば、どんなによかっただろうと何度思ったことか・・・ しかし時既に遅しです。はっきり言ってリサーチ不足でした。 理系出身だから電機メーカーに、というのは皆が進む道のように思えても賢明な選択ではないことが分かりました。 そして東大卒だから将来は安泰、上手くいけば出世も望めるというのも認識が甘く、 実際には前述したように東大卒を目の敵にしている何人もの人たちに対して、 その場その場で適切に振る舞い、キレるところはしっかりキレて、なめられないように、そして「こいつはできるし人間も素晴らしい。 でも怒らせると怖い」というところをしっかり示し絶妙のバランスを保ちながら、キャリアを築いていかなければならなかったのです。 しかし謙虚で物静かで我慢強い僕にはそれができませんでした。「怒らせると怖い」ということが示せなかったのは、職場で無用なトラブルを起こしたくなかったのと、 一度キレると職場に居づらくなると考えてのことで、精一杯頑張って我慢した結果でした。 キレないように必死に我慢し頑張ったことが報われないというのは何とも皮肉です。 キレる方がはるかに簡単で気持ちよく、なおかつこの場合はそうすべきだったわけですから・・・ 要するに一言で言えば、この場でキレてよいか、我慢するべきかの判断力に欠けていたのです。 僕は学生時代、孤独に過ごしてきて対人関係を積極的に築いてこなかったため、そのような判断能力が欠如していたのだと思います。 普通は、我慢せずにキレる方が問題になりますが、僕はキレずに我慢しすぎることが問題だったわけです。

それでも、さすがの僕も最終的にキレました。 その職場の課長に対して、辞意を示したわけです。 唐突で申し訳ないですが、僕は小学校高学年の頃からピアニストになりたいという夢があり、 実はこの時点でもその夢が捨てきれずにいました。しかしこの仕事はピアニストへの夢を封印してまで続けていくほどの価値が あるようには思えないという気持ちが 徐々に高まってきて爆発寸前でした。当時、僕は遠距離でメール交換をしている、同じようにピアニストへの夢が捨てきれないでいる人がいて、 そのような思いを共有していました。僕はその中で、自分の思いを再確認しました。この仕事を辞める以外に選択肢はないと・・・。 転職しても同じような会社組織であれば同じことの繰り返しで、状況はいっこうに改善しないことは目に見えていました。 僕は会社という組織の中では、世渡りが下手で出世できないどころか、 自分の心を病まずに無難に乗り切っていくことができないタイプの人間だったのです。 それならとにかく会社を辞めて、納得いくまで自分の生きたいような生き方をしよう、そう決めたのです。 課長に対して辞意を示すのは勇気が要りました。そして案の定、引き留められてしまいました。 「まあ、そう言わずにもう少し時間をかけて考えてみようよ」と言われました。 僕は時間をかけて考えに考え抜いて、いよいよ決心が固まってから勇気を振り絞って言った一言だったのに、 これ以上、何に時間をかけろと言うのだろう、とも思いましたが、 これは当初から予想された反応でした。僕はその後もその都度、課長に辞意を申し出るのですが、 もう少し待って、と言われてその度に煙に巻かれてしまい、いっこうに話が進みませんでした。

僕はこうして課長と度々話す中で、研修員時代の例の底意地の悪い東工大卒の指導員の話もしました。 僕は飲み会で、ビールのピッチャーごと真っ逆さまにして彼の頭に勢いよくぶっかけてやろうとか、 飲み会の席で表へ出ろと言ってボコボコにしてやろうと本気で思ったことも一度や二度ではなかったことも正直に伝えました。 「○○君(僕のこと)が彼に対して良い思いを抱いていないことはよく分かっていた。 というより彼はチームの和を乱しているんだ。先に辞めていった2人も実は彼が原因でやめたんじゃないかと思うんだ。 今度は○○君にまでそのような思いをさせてしまったのはチームを監督する僕の責任だと思う。本当に申し訳ない。 本当はあいつをどこか他の部署に異動させることも考えるべきだと思ったこともあるんだけど、 それではその部署に迷惑がかかるし、対応が難しいんだよ。 でもどうか辞めないでほしい。僕がこんなことを言える立場ではないことはよく分かってるけど。」 と課長は言っていました。 課長は例の問題の指導員の彼と僕のことを見ていないようで、実はよく観察していたようでした。 夜中、誰もいなくなった職場のオフィスで僕が左右のフックやストレートを炸裂させている現場も目撃されてしまったようで、 彼は「うわ〜〜怖ええ〜マジで怒ってる・・・」と思ったそうです。 彼が後に僕にそのことを話したとき、「いや〜あの時は、本当につらくて発狂しそうでした」と僕は笑いながら彼に話しました。 一度、会社を辞めると決心した後は、もう失うものは何もないため、 ちょっと理不尽だと思ったことは気遣いなくはっきり言うようにしました。 すると周囲は「あれ、いつもの○○さんではないな」と思いながらも、気を引き締めるのか、 それ以上、僕に対しておかしなことは言ってこなくなりました。 「これでいいんだ、おかしいと思ったことは我慢せずにはっきりとその場で言えばもっとずっとやりやすかったんだ」 ということが分かりましたが、既に退職を決めている職場では時機を逸した感がありました。

最終的に辞意を示してから1年半後、僕はやっと会社を辞めることができました。 その時点では、僕は本気でピアニストを目指すつもりでいましたが、正直自信は全くなくこの後何をすべきか一切計画を立てていませんでした。

この時点で例の彼女との関係は既に終了していて、僕がピアニストを目指すことを応援してくれる人は誰もいませんでした。 そのような孤独の中、モチベーションは全く上がらず、僕は冴えない頭でピアノを弾き続け、来る日も来る日も自分の生き方に自問自答していました。 失業保険は退職後、半年間支給されるのですが、一応求職活動をしていることを示さないと受け取れない決まりになっているため、 僕は隣町のハローワークに行って職を探すふりをしていました。 こんなハローワークで仕事を探すふりをさせられるなんて、俺も落ちるところまで落ちたな、と思うと、 帰りの車の運転中、前が見えなくなるほど涙で溢れてしまうのでした。 せっかく東大を出たのに会社では出世競争への参加はおろか、周囲から目の敵にされて上手くやっていけない、 結局、この世の中に僕が自分で納得できる居場所はないのだろうか、 そもそも東大という学歴そのものが僕にとって全ての災いの元なのではないか、という疑問も出始めて混乱していました。

会社組織に属してしまうと、出世を意識しなくても、東大卒という学歴がある以上、周囲の人間は僕を目の敵にするので、 東大卒という学歴を捨てざるを得ない状況を作ることや、会社組織ではない何らかの特殊な居場所を見つけて それを生業にすることなどが、今後の人生を何とか無事に乗り切るための必要条件と考えました。 そう考えたときに思い浮かぶのは、決まって「ピアニスト」でした。 しかしピアノ界では若くて才能豊かで技術的にも突出した逸材が次々に出現してくる中で、30歳を過ぎた自分がそれを超える存在に 成り上がれる自信は全くありませんでした。自分の中にある「音楽」には自信がありましたが、 それを表現するための技術には全く自信がないという状況でした。 ある程度、実現可能性を考えなければ人生そのものが破綻してしまいます。 そう考えていくと、「結局、何も生きる道が残されていないのではないか、俺の人生、詰んだ・・・」という絶望感に打ちひしがれてしまうのでした。 僕は昔から慢性的で漠然とした対人恐怖があり、1人でいる方が圧倒的に気が楽という性格で、 その上、その当時は抑うつ状態で物覚えが非常に悪くなっていて、ピアノの暗譜にも非常に苦労するという、若い頃の僕には考えられない状態でした。 この「生きにくさ」は何なのだろうという疑問を抱えながら、悶々と日々を過ごしていました。 これは何か、心の病ではないかとも思い、心の病に興味を抱きました。 東大卒という学歴が生きる上で邪魔になるのなら、東大卒という肩書とともに生きてきた今までの人生に見切りをつけて、 白紙に戻す何らかのアクションを起こして第2の人生を新たに再スタートさせればいいんだ、 そして僕は自分の生きにくさの原因を自分で突き止めるんだ、そう思い始めました。 ちょうどその頃、一度大学を卒業した人が医学部に編入して医師になれる制度があるという話をどこからともなく聞き及んで、 それなら、それをやってみようかと前向きな姿勢に変わってきました。 医学部に編入できれば、最初の学歴を捨てて第2の学歴を手に入れることができる、 そして病院という職場では周囲の医師は皆同じ職業だから、前の職場のように突出した学歴で目の敵にされることもない、 そして僕は高年齢の後発組だから最初から出世競争からは脱落していて、敵はできようがない、 そんな状況で、自らも向上心を持って勉強して、この穏やかで物静かな性格で患者さんに優しく接して 残りの人生で社会貢献したい、そして自分に心の病があるのなら、それを掘り下げたいという思いもありました。

このような経緯から、僕は決意しました。

そうだ、医学部入ろう。

時は2005年11月になっていました。会社を辞めてから9か月の時が経過していました。

上述した内容からもお分かりかと思いますが、僕は当初、精神科医になることを漠然と思い描いていました。 しかしだいぶ後になって、病院の精神科研修で多くの精神科患者を相手にするうちに、これは自分には難しすぎて手に負えないと感じ、 意外に自分の努力が報われない徒労感ばかりが残るように感じましたし、 年々、自分が目指したい医師像が変わってきたため、最終的には他の科を目指すことになりました。

このように、僕が医学部を目指すまでには幾多の紆余曲折があり、志望動機も極めてユニークだと思います。 志望動機はどうであれ、医学部を目指すと決めたからには行動あるのみで、妥協は禁物です。 僕はその決心を固め、退路を断つ意味も込めて、貧乏サラリーマン時代の2か月分の給与を預金口座から引き出し、 KALSの門を叩きました。2005年12月のことで、僕は33歳半ばになっていました。

 
 
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